2013年6月29日土曜日

ロイ・ハリス(1898~1979)の音楽:ロイ・ハリスについて

オクラホマの農家の丸太小屋で生まれたとされるハリスは、5歳に母親の病気のためにカリフォルニアに移った。家族で歌を歌ったり、家にあったピアノをたしなむことはあったが、特に幼い頃から音楽家を志していた訳ではなかった(ただし高校時代にピアノとクラリネットを演奏している)。 第一次世界大戦には一兵士として活躍したし、大戦後も大学で経済学などを学んでいた。しかしいよいよ作曲家になる決心を固め、アメリカでアーサー・フェアウェルについて基礎を身につけた後、コープランドの紹介で、パリのナディア・ブーランジェに作曲の教えを乞いにいく。しかしアカデミックな彼女の教授法にはまったく満足せず、ひたすらベートーヴェンの弦楽四重奏を独学する。ただしブーランジェが紹介したバロック以前の音楽には興味をもち、帰国後アメリカの国会図書館において、ルネサンス音楽の楽譜集を研究した。 その後《交響曲1933年》の成功において、ハリスの作品はクーゼヴィツキーの目に止まり、この第3交響曲も彼によって委嘱された。当時ハリスはヤッシャ・ハイフェッツのためにヴァイオリン協奏曲を書いたが、作曲者・演奏者両者とも満足せず、作品は撤回された。そのかわりハリスはその協奏曲からの主題を交響曲に取り入れた。作品初演は大成功に終わり、ハリスの作曲家の地位を決定的なものにした。そしてこの作品以後、1940年代まで、ハリスは最もアメリカ的な作曲家として歓迎されていた。ジャズやいわゆる「商業音楽」を使わないという点でも、シリアスなアメリカ音楽を求めていた聴衆に受け入れられたということもあった。

彼の音楽語法の特徴の一つには、まず長調と短調が絶えず織り混ぜられる長く旋法的な旋律線がある。これはきっちりとした楽想の展開を考えた均整感覚のある旋律ではなく、自由に緩やかに紡ぎ出されていくタイプの旋律である。このようなハリスの旋律の動きはしばしばぎこちなく響くのだが、それは彼の旋律が、長調・短調を容易に混合することができる彼独特の和声法に基づいているからだといわれている。第3交響曲では、その他複調(二つの調の和音を同時に鳴らす)も見られるが、調性は、ある音を繰り返し強調することによって保たれている。

また彼の作風は生涯を通して大きな変化を経ることはなかったが、それはハリスには、人は一生に一つの音楽語法を作り上げるものだ、という信念があったことに由来するようだ。しかしそれがかえってマンネリズムを引き起こしたということも否定できない。

ハリスの音楽観は、幼いころ身近にあった山や谷、汽車といった風景や音に影響されており、白人の民俗音楽の伝統も受け継いでいる。ただしもう一つの民俗音楽の流れであるジャズにはあまり興味を持たず、それは感情的に希薄で限りがあるとしている。

しかしハリスは、そういった自分自信にに常に忠実であった。音楽というものは作曲家の感情を捉え、それを伝えようとすることだと考えており、そのような真摯な態度が、武骨ながらも誠実なアメリカの交響曲を生み出したということは言えるだろう。

ところで筆者がアメリカで感じたハリスの評価は必ずしも肯定的なものではなかった。その理由は、彼個人の気難しい性格が必ずしも多くの人に気に入られてなかったということのようだ。さらにそれが乗じて彼のアメリカらしさというのはハリス自身のうまいプロモートだったと主張する人たちもいる(1930・40年代、彼はいろんなメディアに自己の音楽論を執筆していたためだろう)。しかし若くしてチャンスをものにした作曲家が自己宣伝の機会を逃がさず使うことは、生き残りの手段として自然なことでもあるし、ハリスだけが特別自己アピールに長けていたとか、自己アピールが特別強かったというのも、いささか誇張であるように思う。音楽から得られるものを無視して、いたずらに一作曲家を陥れるのも、問題があるように思うのだが。

参考として、例えばギルバート・チェイスのアメリカ音楽史の本をご覧になるとよい。ハリスの扱い方の大きさに驚かれるのではないだろうか。実は第3版よりも、第2版の方が、さらに扱いが大きいのである。

しかし、彼の作品の録音が多く出ているということは、それだけ聴かれているということを示しているし、作曲家の評価というのは、最終的にはやはり作品によってなされていくだろうとは思う。(02.1.7.執筆、02.9.6.、05.05.06.改訂)

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