1994年6月15日
ハリー・パーチはかつて「音楽のドン・キホーテ」と呼ばれたが、今では「哲学者」など、数多くの称賛が与えられるようになった。"the Don Quixote of music" → A "philosopher," a "visionary," an "inspired, stubborn radical."
今日は [ロバート・] ラッセル・ベネットの生誕100年の日に当たる。彼の作品がWGBH [ボストンのラジオ局] で演奏された。彼のオーケストレーションは優れている。楽想に華々しさにはやや欠けるところはある。ヴァイオリン協奏曲には、彼の作品が凝縮されているかのようで、割と古典的な構造でできているように聴こえた。1894年生まれなら、そんなもんか?
アメリカには多くの作曲がいる。もしかしたらヨーロッパよりも少ないのかもしれない。しかし、ここでは多くの作曲家の作品に出会うことができる。作曲家の多くは大学で教鞭を執っているようだが、大学教授 (作曲科) がすべて偉大な作曲家であるかどうかはわからない。[フィリップ・] グラスや [スティーヴ・] ライヒは大学とは関係ないが、大ヒットを飛ばしている作曲たちではある (偉大かどうかはわからないけど…)。大学単位で、学生のオケのレベルもそれなりに高いし、大学と地域の演奏団体とのつながりが密で、常に現役である。日本の小さな都市も人材を育てることによって、大学単位で、いろんなことができるのではないだろうか。東京の真似をして、大きなホールやオーケストラをつことだけが、地方音楽のあるべき姿でもないだろう。地域に伝統のある芸能があるなら、それらを見逃す手はない。マス・コミュニケーションは東京だけでなく、地域地域の音楽芸能活動に敏感であるべきだろう。ラジオ局は地元の演奏会・演奏家にもっと焦点を向けるべきだ。毎日東京でどんなコンサートをやっているかはよく知っているが、地元のことは分からないということが多い。
ボストンでは『ニューヨーク・タイムズ』を読まない限り、ニューヨークのコンサート情報は手に入らない。ハーバード・スクエアにでもいかなければ、その他 [=ボストン以外] の都市の新聞は買えない。「ボストンが大都市じゃないからさ」とニューヨーカーは冷たくあしらうのかもしれない。しかしボストンはかつて [指揮者セルゲイ・] クーセヴィツキーがアメリカ作曲界、現代音楽シーンをリードしていた土地でもあるのだ。
日本は東京を離れると多くのものを失ったように感じる。外国招へいのアーティストはほとんど東京でコンサートを開く。地方はいわゆる「巡業」なのである。アーティストにとっては地方公演では手を抜くこともあるという。問題はアーティストたちだけではない。聴き手の側もアーティストたちの音楽に常に厳しい目を向けるべきなのである。
日本の大学の教育の中、特に non-major [専攻外] の人たちの音楽の授業は、実は大きな意味があるように思う。Major [専攻] よりnon-majorの人の方が聴衆の大半を占めているのだ。不思議なことかもしれないが、major の人たちは自分の専攻楽器以外の音楽にはあまり関心を持たない。声楽科の学生は、いつも声楽の曲ばかり、トランペットの学生はオーケストラのトランペット・パートばかりを聴いている。彼らはしばしば曲を聴かず、各々のパッセージがいかに演奏されるべきかに聴き入っているのだ。
1994年6月17日
アラン・ホヴァネスは多作家で、現在、交響曲の数だけでも62を超えると言われている。その奇妙な響きに魅力がある。インド、日本などアジア各地に滞在経験があり、旋法的な響きのする音楽である。
1994年6月21日
マリー・シェーファー「人類最初の音楽は、即興によるものだったと考えられる。」
楽譜は、グレゴリオ聖歌のように、はじめは「記録する」ためのものだったに違いない。楽譜がある程度正確に演奏を記録できるようになってから作曲家が出現したのでは?
宗教関係者によって書かれた?〜ムジカ・エンキリアデス
同じ曲を何度でも演奏できる→作曲家としての地位がが生まれた?
思弁的な音楽?
mind と intelligence 情--知的に捉えた情が本当の情なのか、分析可能なのか?
同じfeeling を再び取り出すことはできるのか? feeling...様々なcontextで多種多様に変わる