ウィリアム・ストリックランド指揮ウイーン交響楽団米Desto DST-6404(LP)
Naxos Music Libraryへのリンク→http://ml.naxos.jp/album/9.80695
バーンスタイン盤と同様のカットがなされている。私がハリス作品を初めて聴いたのが、この音源だった。藤原良久さんの司会によりNHKで5日間にわたってゴッチョークからルーニングまでのアメリカ・クラシック音楽の歴史を辿る番組があり、その時に放送されたも。数年後、同じ藤原良久さんの司会で、ガーシュインの特集が組まれた時も、この録音がアメリカ音楽史を飾る作品として紹介された。
それ以来このLPを探した。かつてはお茶の水のアパートの一室にあったレミントンというお店に注文を出したりもした(番号まで覚えていて、店員の方に驚かれた記憶がある)。結局見つけたのは、1991年だったか、神田三省堂で行われたレコードフェアだった。
という訳で、個人的に想い出深い音源である。
さて、カップリングは、ウィリアム・シューマンの《アメリカ祝典序曲》(風呂のなかで桶をひっくり返したような音だ!)とセッションの《ブラック・マスカーズ》。シューマン作品については、これやキンドラー指揮の録音では、面白さが分らないだろうな、と思う。
なお、ナクソス・ミュージック・ライブラリーでは復刻された同音源が聴ける(上記リンク参照)。演奏者名は、アメリカン・レコーディング・ソサエティ響となっているが、Desto音源のオリジナル盤が American Recording Societyというレーベルから出ており、オーケストラの名前も仮面になっていたものと思われる。(01.1.13.執筆、02.9.6.、05.05.06.改訂、2009年1月15日情報追加)。
2013年6月29日土曜日
ロイ・ハリス(1898~1979)の音楽:ロイ・ハリスについて
オクラホマの農家の丸太小屋で生まれたとされるハリスは、5歳に母親の病気のためにカリフォルニアに移った。家族で歌を歌ったり、家にあったピアノをたしなむことはあったが、特に幼い頃から音楽家を志していた訳ではなかった(ただし高校時代にピアノとクラリネットを演奏している)。
第一次世界大戦には一兵士として活躍したし、大戦後も大学で経済学などを学んでいた。しかしいよいよ作曲家になる決心を固め、アメリカでアーサー・フェアウェルについて基礎を身につけた後、コープランドの紹介で、パリのナディア・ブーランジェに作曲の教えを乞いにいく。しかしアカデミックな彼女の教授法にはまったく満足せず、ひたすらベートーヴェンの弦楽四重奏を独学する。ただしブーランジェが紹介したバロック以前の音楽には興味をもち、帰国後アメリカの国会図書館において、ルネサンス音楽の楽譜集を研究した。
その後《交響曲1933年》の成功において、ハリスの作品はクーゼヴィツキーの目に止まり、この第3交響曲も彼によって委嘱された。当時ハリスはヤッシャ・ハイフェッツのためにヴァイオリン協奏曲を書いたが、作曲者・演奏者両者とも満足せず、作品は撤回された。そのかわりハリスはその協奏曲からの主題を交響曲に取り入れた。作品初演は大成功に終わり、ハリスの作曲家の地位を決定的なものにした。そしてこの作品以後、1940年代まで、ハリスは最もアメリカ的な作曲家として歓迎されていた。ジャズやいわゆる「商業音楽」を使わないという点でも、シリアスなアメリカ音楽を求めていた聴衆に受け入れられたということもあった。
彼の音楽語法の特徴の一つには、まず長調と短調が絶えず織り混ぜられる長く旋法的な旋律線がある。これはきっちりとした楽想の展開を考えた均整感覚のある旋律ではなく、自由に緩やかに紡ぎ出されていくタイプの旋律である。このようなハリスの旋律の動きはしばしばぎこちなく響くのだが、それは彼の旋律が、長調・短調を容易に混合することができる彼独特の和声法に基づいているからだといわれている。第3交響曲では、その他複調(二つの調の和音を同時に鳴らす)も見られるが、調性は、ある音を繰り返し強調することによって保たれている。
また彼の作風は生涯を通して大きな変化を経ることはなかったが、それはハリスには、人は一生に一つの音楽語法を作り上げるものだ、という信念があったことに由来するようだ。しかしそれがかえってマンネリズムを引き起こしたということも否定できない。
ハリスの音楽観は、幼いころ身近にあった山や谷、汽車といった風景や音に影響されており、白人の民俗音楽の伝統も受け継いでいる。ただしもう一つの民俗音楽の流れであるジャズにはあまり興味を持たず、それは感情的に希薄で限りがあるとしている。
しかしハリスは、そういった自分自信にに常に忠実であった。音楽というものは作曲家の感情を捉え、それを伝えようとすることだと考えており、そのような真摯な態度が、武骨ながらも誠実なアメリカの交響曲を生み出したということは言えるだろう。
ところで筆者がアメリカで感じたハリスの評価は必ずしも肯定的なものではなかった。その理由は、彼個人の気難しい性格が必ずしも多くの人に気に入られてなかったということのようだ。さらにそれが乗じて彼のアメリカらしさというのはハリス自身のうまいプロモートだったと主張する人たちもいる(1930・40年代、彼はいろんなメディアに自己の音楽論を執筆していたためだろう)。しかし若くしてチャンスをものにした作曲家が自己宣伝の機会を逃がさず使うことは、生き残りの手段として自然なことでもあるし、ハリスだけが特別自己アピールに長けていたとか、自己アピールが特別強かったというのも、いささか誇張であるように思う。音楽から得られるものを無視して、いたずらに一作曲家を陥れるのも、問題があるように思うのだが。
参考として、例えばギルバート・チェイスのアメリカ音楽史の本をご覧になるとよい。ハリスの扱い方の大きさに驚かれるのではないだろうか。実は第3版よりも、第2版の方が、さらに扱いが大きいのである。
しかし、彼の作品の録音が多く出ているということは、それだけ聴かれているということを示しているし、作曲家の評価というのは、最終的にはやはり作品によってなされていくだろうとは思う。(02.1.7.執筆、02.9.6.、05.05.06.改訂)
彼の音楽語法の特徴の一つには、まず長調と短調が絶えず織り混ぜられる長く旋法的な旋律線がある。これはきっちりとした楽想の展開を考えた均整感覚のある旋律ではなく、自由に緩やかに紡ぎ出されていくタイプの旋律である。このようなハリスの旋律の動きはしばしばぎこちなく響くのだが、それは彼の旋律が、長調・短調を容易に混合することができる彼独特の和声法に基づいているからだといわれている。第3交響曲では、その他複調(二つの調の和音を同時に鳴らす)も見られるが、調性は、ある音を繰り返し強調することによって保たれている。
また彼の作風は生涯を通して大きな変化を経ることはなかったが、それはハリスには、人は一生に一つの音楽語法を作り上げるものだ、という信念があったことに由来するようだ。しかしそれがかえってマンネリズムを引き起こしたということも否定できない。
ハリスの音楽観は、幼いころ身近にあった山や谷、汽車といった風景や音に影響されており、白人の民俗音楽の伝統も受け継いでいる。ただしもう一つの民俗音楽の流れであるジャズにはあまり興味を持たず、それは感情的に希薄で限りがあるとしている。
しかしハリスは、そういった自分自信にに常に忠実であった。音楽というものは作曲家の感情を捉え、それを伝えようとすることだと考えており、そのような真摯な態度が、武骨ながらも誠実なアメリカの交響曲を生み出したということは言えるだろう。
ところで筆者がアメリカで感じたハリスの評価は必ずしも肯定的なものではなかった。その理由は、彼個人の気難しい性格が必ずしも多くの人に気に入られてなかったということのようだ。さらにそれが乗じて彼のアメリカらしさというのはハリス自身のうまいプロモートだったと主張する人たちもいる(1930・40年代、彼はいろんなメディアに自己の音楽論を執筆していたためだろう)。しかし若くしてチャンスをものにした作曲家が自己宣伝の機会を逃がさず使うことは、生き残りの手段として自然なことでもあるし、ハリスだけが特別自己アピールに長けていたとか、自己アピールが特別強かったというのも、いささか誇張であるように思う。音楽から得られるものを無視して、いたずらに一作曲家を陥れるのも、問題があるように思うのだが。
参考として、例えばギルバート・チェイスのアメリカ音楽史の本をご覧になるとよい。ハリスの扱い方の大きさに驚かれるのではないだろうか。実は第3版よりも、第2版の方が、さらに扱いが大きいのである。
しかし、彼の作品の録音が多く出ているということは、それだけ聴かれているということを示しているし、作曲家の評価というのは、最終的にはやはり作品によってなされていくだろうとは思う。(02.1.7.執筆、02.9.6.、05.05.06.改訂)
アイヴズ:交響曲第2番 (1)
ケネス・シャーマーホーン指揮ナッシュビル交響楽団 Naxos 8.559076
Naxos Music Libraryへのリンク→http://ml.naxos.jp/album/8.559076
このCDの「売り」の部分は、近年編集されたという、音楽学者による、当作品の新しい楽譜、いわゆる校訂版(クリティカル・エディション)を使った最初の録音であるということだ。解説を読んでみると、1951年版のスコアは、バーンスタインの初演のために、ヘンリー・カウエルが準備したもので、それは1907年から10年に書かれた自筆譜をもとに制作されたとされている。ところがこのスコアの編纂(へんさん)は、ずさんで、アイヴズも初演をラジオで聴いてがっかりしたということらしい。
満津岡信育さんによる情報
St. Ivesさんのご意見
Naxos Music Libraryへのリンク→http://ml.naxos.jp/album/8.559076
このCDの「売り」の部分は、近年編集されたという、音楽学者による、当作品の新しい楽譜、いわゆる校訂版(クリティカル・エディション)を使った最初の録音であるということだ。解説を読んでみると、1951年版のスコアは、バーンスタインの初演のために、ヘンリー・カウエルが準備したもので、それは1907年から10年に書かれた自筆譜をもとに制作されたとされている。ところがこのスコアの編纂(へんさん)は、ずさんで、アイヴズも初演をラジオで聴いてがっかりしたということらしい。
ちなみに妻のハーモニーからバーンスタインに宛てられた手紙には、アレグロ楽章のテンポが速すぎる以外、アイヴズ本人は気に入っていたとあるので、今回の楽譜校訂者が、どの辺りまでのことを指して話しているのかは、分からない。tuzakさんによると、「ラジオを聴いてがっかりしたとありますが、確かどこかで『喜んだ』と読んだ記憶があ」るそうで、「初演には誘われても出かけなかったけど自宅のラジオを聴いて小躍りしたと」もされている。(当サイトの掲示板の記事、10月 9日(月)01時12分49秒より)特に問題となった箇所は第2楽章のテンポ記号がかなり抜け落ちていることと、第5楽章の場合は、オリジナルとは違った勝手なテンポになってしまったということだった。結果としてはそれが、「バーンスタインのイージーゴーイングなテンポや凡長な緩徐楽章の解釈につながった」とまで書いてある。
満津岡信育さんによる情報
Peer版の2番のスコアは、どうやらカークパトリックがメトロノーム記号を 入れているらしくて、近年はフィナーレなど非常に速いテンポが主流(ヤルヴィの CD、日本での実演では高関=大阪センチュリー、井上=東フィル、岩城=東フィ ル・・・ただし、最後の一つは私は聴いておりませんが)だったのですが、Naxos のシャーマーホーン盤はもっと遅く旧来の路線で演奏されています(ファクシミ リを見る限り、メトロノーム記号は書き入れてないそうです)。それと、ラスト の<クラッシュ>の八分音符の音価は録音史上最も短いかもしれません。(当サイトの掲示板の記事、10月 8日(日)16時19分23秒より)tuzakさんによる情報
スコアですが、私が持っているのはPEERのもので、確かにメトロノーム速度が書かれています。それでフィナーレが速いん ですか。なるほど。ニ分音符が96とか92とかと指定されています。 カタストロフィが最も短いというのは興味深いです。PEERの楽譜にはsecもスタッカートすらも付いてないんですよね。も ちろん、フェルマータもないんですが。(当サイトの掲示板の記事、10月 9日(月)01時12分49秒より)今回使われたクリティカル・エディションは、第2楽章の提示部の反復(反復しなくても良いみたいだが)や第5楽章のカット(バーンスタインが、かなり適当にやっていたらしい)など、1951年版になかった部分が復刻され、そのほかおよそ一千箇所も(数えきれないほど多くという意味かもしれないが)手が入っていると解説にはある。また、最終音の延ばしは1951年版のスコアにもなく、これはバーンスタインがアイヴズが亡くなって4年後、米コロンビアに第2を録音した時になって初めて付け加えられた、と説明がある。なお、この録音では短く演奏されている。
なお、クリティカルエディションについてだが、tuzakさんによると、Jonathan Elkus以外に Malcolm Glodstein のものもあり、Tillson Thomasがこの版の初演録音しているとのこと(当サイトの掲示板の記事、10月 9日(月)01時12分49秒より)。確かに、一聴したところ、第2楽章、第5楽章など、ずいぶんこれまでと印象が違うと思われた場所も多い(版と演奏法については、St. Ivesさんによる考察を参考にしていただきたい)。しかし、実際に音になった第2交響曲が、これによって、ものすごく面白くなったかというと、疑問が残る。作曲者の意図を忠実に再現したいという欲求は、いわゆるクラシック音楽を志す人には多いと思うが、最終的に、それは自分の創造的な表現でなければならないところが、音楽の難しさではないかと思う。(2000.12.3.)
St. Ivesさんのご意見
正直なところがっかりしました、演奏もそうですが、クリティカル・エディションの売り物とも言える2楽章は、演奏の単調さも手伝ってあまりに長いと私は思いました(ベートーヴェンの5番のギュルケ稿を初めて聴いたような感じです)。(当サイトの掲示板の記事、11月25日(土)01時44分41秒より)
2011年11月2日水曜日
ケヴィン・プッツがオペラに挑戦
Opera Fresh: Composer Kevin Puts Will Debut His First Opera in ...: Composer Kevin Puts (Photo: Gregory Downer/Opera News) "When Dale Johnson, artistic director of Minnesota Opera, saw Joyeux Noël , Chris...
ひそかにケヴィン・プッツには注目しているのですが、ついに彼もオペラを作ることになりそうです。楽しみ。
ひそかにケヴィン・プッツには注目しているのですが、ついに彼もオペラを作ることになりそうです。楽しみ。
2011年6月24日金曜日
ピストン:オーボエとピアノのための組曲
楽章形式からして、バロックの舞踊組曲を意識していることは確か。第1楽章のリズム感覚が、特にバロック・フレーバーを醸し出している。第2、第3は、それとは違って、オーボエが本来持つ、叙情的な側面を引き出す作風ではないかと思う。
チャールズ・アイヴズ:交響曲第1番 、作品について
アメリカ音楽史の教科書として、スタンダードな1冊、『アメリカの音楽』の著者、ギルバート・チェイスは、アイヴズの第1交響曲を、単に「折衷主 義」の作品として捉えている。しかし、聴いた感じでは、この曲から、第2までの「作風」的な距離は、それほど遠くないのではないかと思う。確かに、明確に アメリカ的という特徴を作品中に指摘することはできないが、いろいろが楽器が雑多に交錯し、にぎやかで力強いところや、マーチ風のリズム動機など、作曲技 法は、後の作品にも通づるところがあるからだ。
そうすると、チェイスの第1交響曲の位置付けは、何に基づいているのだろうか? 作風はすでにアイヴズでも、フォスターや賛美歌がなければ折衷主義 なのだろうか? そういった素材がなければ、「アメリカの交響曲」でなくなってしまうのだろうか?
アメリカ民謡やフォスターの歌曲、賛美歌の引用をもって、アイヴズ作品をアメリカらしいとすることは簡単だろう。しかしアイヴズがそれを、実際の作 品の中でどのように使っていたのか、あるいは生かしていたのか、そういったアプローチもアイヴズの音楽を見る際には必要ではないかと思われた。なぜなら、 そういった、あからさまな「アメリカらしさ」を含めることが、そのままアメリカ音楽の真髄を創造することになるとも限らないからだ。これは、例えば日本の 洋楽に「日本らしさ」を求めるとき際、どういう問題が浮かんでくるのかを考えてみれば分かると思う。民謡の引用が、日本らしい洋楽になるのか、また、その 必要性はあるのか、ということだ。
絵画の世界では、描く題材が、ナイアガラの滝であったりグランド・キャニオンであれば、描写の手法の検討よりも、簡単にアメリカらしさが表現されて しまうのも事実だ。しかし、ヨーロッパの絵画の技術をそのまま当てはめ、アメリカを題材にして絵を描くことが、そのままアメリカ絵画の創造になるかといえ ば、議論の分かれるところだと思う。
第1交響曲はアイヴズがイエール大学在籍中に書かれた作品。基本的にはニ長調が主調。第2・4楽章は、卒業作品として提出されたそうだ。アイヴズを 指導したホレイショ・パーカーも、アイヴズに対して積極的な指示をだし、それが必ずしもアイヴズの思惑と一致しなかったこともあったようだ。パーカーの指 示によって変更された箇所は、(1)のライナーによると、例えば緩徐楽章。冒頭は、もともとは変トの和音で開始する予定で、楽章途中には、賛美歌が連続し て引用されているはずだったという。
作品の価値を下すのは、難しい問題であるが、私個人の感じ方は、やはりアイヴズの、後の3つの交響曲の源泉を辿る(たどる)という意味では、興味深 く聴けるのかもしれない、という程度である。できれば、アイヴズの先生だった、ホレイショ・パーカー(例えば米ニューワールドに録音された《北方のバラー ド》)や、パーカーと同じ、第2ニューイングランド楽派のジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック(例えば英シャンドスに録音された第2交響曲)な どを併せて聴くことによって、当時の音楽的文脈を再現するのが、より収穫のある聴き方であるような気がする。(2000.12.17.)
そうすると、チェイスの第1交響曲の位置付けは、何に基づいているのだろうか? 作風はすでにアイヴズでも、フォスターや賛美歌がなければ折衷主義 なのだろうか? そういった素材がなければ、「アメリカの交響曲」でなくなってしまうのだろうか?
アメリカ民謡やフォスターの歌曲、賛美歌の引用をもって、アイヴズ作品をアメリカらしいとすることは簡単だろう。しかしアイヴズがそれを、実際の作 品の中でどのように使っていたのか、あるいは生かしていたのか、そういったアプローチもアイヴズの音楽を見る際には必要ではないかと思われた。なぜなら、 そういった、あからさまな「アメリカらしさ」を含めることが、そのままアメリカ音楽の真髄を創造することになるとも限らないからだ。これは、例えば日本の 洋楽に「日本らしさ」を求めるとき際、どういう問題が浮かんでくるのかを考えてみれば分かると思う。民謡の引用が、日本らしい洋楽になるのか、また、その 必要性はあるのか、ということだ。
絵画の世界では、描く題材が、ナイアガラの滝であったりグランド・キャニオンであれば、描写の手法の検討よりも、簡単にアメリカらしさが表現されて しまうのも事実だ。しかし、ヨーロッパの絵画の技術をそのまま当てはめ、アメリカを題材にして絵を描くことが、そのままアメリカ絵画の創造になるかといえ ば、議論の分かれるところだと思う。
第1交響曲はアイヴズがイエール大学在籍中に書かれた作品。基本的にはニ長調が主調。第2・4楽章は、卒業作品として提出されたそうだ。アイヴズを 指導したホレイショ・パーカーも、アイヴズに対して積極的な指示をだし、それが必ずしもアイヴズの思惑と一致しなかったこともあったようだ。パーカーの指 示によって変更された箇所は、(1)のライナーによると、例えば緩徐楽章。冒頭は、もともとは変トの和音で開始する予定で、楽章途中には、賛美歌が連続し て引用されているはずだったという。
作品の価値を下すのは、難しい問題であるが、私個人の感じ方は、やはりアイヴズの、後の3つの交響曲の源泉を辿る(たどる)という意味では、興味深 く聴けるのかもしれない、という程度である。できれば、アイヴズの先生だった、ホレイショ・パーカー(例えば米ニューワールドに録音された《北方のバラー ド》)や、パーカーと同じ、第2ニューイングランド楽派のジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック(例えば英シャンドスに録音された第2交響曲)な どを併せて聴くことによって、当時の音楽的文脈を再現するのが、より収穫のある聴き方であるような気がする。(2000.12.17.)
ジェームズ・シンクレアのアイヴズ作品目録
A Descriptive Catalogue of The Music of Charles Ives
http://webtext.library.yale.edu/xml2html/music/ci-d.htm
イエール大学音楽図書館にある、チャールズ・アイヴズの作品目録です。アイヴズ作品の調査の出発点であり、基本文献だと思います。すでに書籍として出まわってますが、このオンライン版は、無料みたいです。すごいですねえ。
http://webtext.library.yale.edu/xml2html/music/ci-d.htm
イエール大学音楽図書館にある、チャールズ・アイヴズの作品目録です。アイヴズ作品の調査の出発点であり、基本文献だと思います。すでに書籍として出まわってますが、このオンライン版は、無料みたいです。すごいですねえ。
2009年6月7日日曜日
ジョセフ・キュリアール 『目覚め』
ジョセフ・キュリアール指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 英Black Box BBM1050
ジョセフ・キュリアール初のアルバムのリリースが、ジャケットを変更して発売された。以下、オリジナル・デザインのCDがアメリカで発売された時の感想を、そのまま転記しておく。
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作曲者の詳細については、キュリアール自身が作ったウェブページに、あえて記したくないとある。作曲家の民族的背景、教育歴が、しばしば音楽理解を妨げ、誤解を招くからだというのが彼の主張。なるほど。しかし、一方で音楽に興味を持った聴き手が、その作り手に興味を抱くのも、自然な発想だろう。大切なのは、音楽が先に来る、音楽が主であるという発想から始めることではないかと思う。
ということで、彼の背景について知ることはできないのであるが(CDの解説書に、各作品に対する解説は収められている。楽曲解説は「誤解」を招かないのだろうか? クロノス・カルテットとはスタンスが違うのかな?)、聴いた感じでは、アジア文化に影響を受けたアメリカ人による、ハリウッド映画音楽を彷佛とさせるオリエンタリズム〜環境主義音楽〜エキゾチシズムを聴いたと感じである(もちろん、こういった概念化にも、異論があるだろうが、私はてっとり早く私の印象をまとめるものとして使っている。実際に聴いた人が違う印象を持ったり、私に反論するのは有効だと思う)。
おそらくこのアルバムで最も印象に残るのは、最初の《黄金の門》という作品だろう(日本では「ゴールデンゲート」というと、しっくりくるのだろうか)。カリフォルニアに住む中国系移民がテーマになっているそうだが、中国人の抱くアメリカン・ドリーム、そして自ら大切にする中国の音楽伝統という感じがする。このCDではヴァイオリン独奏になっているが、二胡で演奏されることもあるようだ。二胡による演奏ならば、あの独特のアクセントのきき方、金属弦の鋭い音が、より強い民族色を出すに違いない。
民族色を取り除けば、開き直りの調性音楽だとも言える。特にあの最後のティンパニーの打ち下ろしは、最近の映画音楽でも、あまりにおもむろ過ぎて、やらないのではないだろうか。
よりムード音楽的な残りの作品に関しては、ギターとオーケストラのための《アデリーナ・デ・マヤ》が、私には楽しめた。アルバム・タイトルの《目覚め》は、祈りのような前2楽章と、それに対照的な外向的なフィナーレといった感じ。amazon.com感想欄にはアダムスの影響を見る人もいるようだが、おそらくそれは《The Multiples of One》(《一人一人が集まって》って感じ?)のことを指しているのだろう。
個人的にはBGMなどにも使えそうなクラシック・ファン向けの楽しいCDだと思う(01.5.4.、01.11.06訂正、02.2.12.改訂)
2009年6月6日土曜日
グールド:シンフォネット第2番(1939)
ケネス・クラーク指揮ロンドン交響楽団 米Albany TROY 202
Naxos Music Libraryへのリンク→http://ml.naxos.jp/work/207862
Naxos Music Libraryでは、シンフォネット第2番という表示になっているが、原題はSymphonette No. 2, "Second American Symphonette"、つまり副題として《第2アメリカン・シンフォネット》という名称が付けられている。グールドには《ラテン・アメリカン・シンフォニエッタ》という曲もあって、紛らわしい。
この曲は3つの楽章で構成されているが、第1楽章はスイングのリズムに合わせて、冒頭の動機が何度も展開される。
第2楽章は《パヴァーヌ》として、ポップス・コンサートなどで独立して演奏されることもある。冒頭に現われるミュート・トランペットの旋律が特に親しまれているようだ。伴奏をつとめるファゴットは特別スイングしているわけではないが、三連符とスキップするリズムがジャズ色を濃くしている。副題にある「アメリカ」は北米を指すということが推測できよう。
第3楽章はチャールストン風なリズム型が支配的。しかしクラシックっぽいがっちりしたリズム型やスイングも混ざってくる。
ロンドン交響楽団は明るい音色のオーケストラだが、ややジャズ的なノリに欠けるところもある。なお、この録音はもともと英EMIからリリースされたが、ここに紹介したAlbany盤は、同じ音源を作曲者の追悼盤として発売したものである。(2002.2.5.改訂、2009.6.6. 改訂)
グールド:ラテンアメリカン・シンフォニエッタ (3)
グールド:ラテンアメリカン・シンフォニエッタ (2)
グールド:ラテンアメリカン・シンフォニエッタ
モートン・グールド指揮ロンドン交響楽団 米Citadel CTD88130
やはりこの作品を聴くなら、指揮者としての経験も豊富な、作曲者のグールド指揮の演奏が良いのではないだろうか。鳴りのよいロンドン響だが、スイング感もはっきりしていて気持ちがよい。また、この盤では《ラテン・アメリカン・シンフォニエッタ》以外にもグールド作品が収録されている(行進曲の旋律による交響曲から<クイックステップ>、《フォール・リヴァー・レジェンド》、《祝祭的音楽》、《自由のファンファーレ》、映画『大西洋二万哩』からメイン・テーマ)。また、ヒナステラのバレエ組曲《エスタンシア》も収録されている。(02.6.5.)
2009年6月5日金曜日
ノーマン・デロ=ジョイオ:変奏とカプリッチョ
パトリシア・トラヴァース(ヴァイオリン)、ノーマン・デロ=ジョイオ(ピアノ)Columbia ML 4845 (LP)
ナクソス・ミュージック・ライブラリー→http://ml.naxos.jp/work/1381936
ナクソス・ミュージック・ライブラリー→http://ml.naxos.jp/work/1381936
簡素なスタイルで書かれた変奏曲。しかし(作曲者によるオリジナルの)主題の提示はピアノの前奏と無伴奏のヴァイオリンというユニークな構成。変奏のための和声的な枠組みはピアノが行い、ヴァイオリンは寄想曲な性格を出しているようだ。また、変奏も四角四面的ではなく、あちこち自由にたゆたうようであり、そういう面からも「寄想曲的」なのかもしれない。作曲者のデロ=ジョイオは、この作品は「簡素で歌いやすい構想で書かれており、叙情的でもある」とし、「この作品は、テクスチュア的には軽く、和声的には簡素で、形式的にはシンプル(と受け取ってもらえるといいのだが)である」としている。一筋縄に古典的作品として味わえないところもあるが、現代的センスを生かした、しとやかで爽快な作品であるとは思う。(99.7.9.、99.9.11.アップデート)
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